大石陽次詩集
愛と孤独とはるかなる宇宙への小さな挽歌。
木は
象のように優雅で
犀のように孤独
草や花や種子や果実
鳥や雲や太陽や月や星々を引き連れて
満ち足りている
(「番号を仮に付し、歩きはじめたことば」より)
私は、詩人とはどういうものなのか知らない。
むろん、詩とはなにか、も。けれど、大石陽次の書く「詩」の言葉が好き、友人に詩人がいるって、いい感じだと思っている。
かなり昔、彼が酔っぱらって、自分はこれから詩人になる、というので「あ、い、う、え、を・・・ん詩」というのを書いてもらったことがある。「あ」という詩、「き」という詩・・・・、で五十音の詩をつくってもらい、それをみんなでああでもないこうでもないと評してたわむれてみたのだ。たとえば「きたみちを/きたほうにかえる/きんあかのはなが/きのえだにゆれ/きんもくせいの/きれいなかおり/きのうは/きがめいったし/きょうは/きぶんがすぐれない/きりどおしのみちに/きんいろのかぜ」というように。
きたみちをきたほうにかえる、なんて意味深な。きりどおしのみちにきんいろのかぜ、だなんて。彼は巧みに言葉と戯れる、いや、言葉をもてあそぶ。たとえナンセンスな言葉遊びに、意味も意義も目標もなくただ興じていても、そこに人の心をとらえる情景をふと浮かびあがらせ、天真爛漫なふりをして読むものをたらしこんでしまうのだ。
詩人とはかくなるものかと思わされた。
その後もなにげない素振りで詩集を世に出し、その度に元編集者らしい仕掛けをひそませ、自らの手でいつのまにか「詩人・大石陽次」をつくりあげてきた。
そして、今回、登場してきたのが「木はどうなったか」。
いきなり、どうなったか、なんて、これは問いなのだろうか、答なのだろうか・・・、もうそれだけで胸がつかれてしまった。
そう、亡き妻に読んでもらいたい、その思いがにじんだこの一冊の詩集は、帰るところを見失った男の心情が、率直に紡ぎだされていて、とても切ない。でも、とにもかくにも、彼はまた言葉とともに歩き始
めた。どこに帰ったらいい? とつぶやきながらも。
──久田恵(ノンフィクション作家・第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)
目次
雨
朝のコーヒー
秋の夜や甘し
病跡学の本に書かれていなかった街
パリ
梅花
いまだ書かれていないこと
大問題
敗戦記念日
お茶でもどうぞ
どこまで行くんだ
詩人
カラスの会話
福冨しゃん、ありがとう
冬の花祭り
彼岸過ぎまで
ランボーの行方
番号を仮に付し、歩きはじめたことば
朝五時に発見した弘子
病室の窓から
どこに帰る?
遠くで
著者について
大石陽次(おおいし・ようじ)
1944年、中国山西省陽泉に生まれる。
1945年、福岡県八女郡北川内村に引き揚げ。
1963年、東京教育大学文学部仏文科に入学。
1967年、同大学卒業、日本放送出版協会に入社。テキスト、書籍の編集に携わる。
2007年、同社、退職。現在、無職。
2004年3月、思潮社より詩集「空の器」刊行。
2007年5月、青灯社より詩集「あいうえお……ん」刊行。