著者:藤守 創
ISBN:978-4-86228-109-8 C0047
定価3200円+税 352ページ
ジャンル[健康・医療]
発売日:2020年1月29日
紹介
「ただ背中を揉んで脊椎一つ一つを整える。
意外なことに、整体術のこのなんの変哲もない療法に日本人の身体観の過去と現在があり、未来の統合医療の鍵もあるかも知れない」
──栗山茂久(ハーバード大学教授)
驚きの事実「肩こり」を感じるのは、世界中で日本人だけ?
パリ第1大学(ソルボンヌ)の哲学博士であり、自身で手技療法の施術の現場にも立つ著者。
フランス、アメリカ、オランダで哲学・医学の両面から人間の身体を研究してきた著者の、驚くべき治療効果と日本人の身体論。
◇祖父と母から受け継いだ、三代にわたる「藤守式」の技と理論・その成果を紹介。
◇肩や腰の痛みだけではない、心疾患や高血圧などにも骨の歪みが関係していた。
「万病のもと」=背骨の歪みを整えることで、新しい人生を手に入れた人々。
・一度の施術時から後頭部の形が変化し、生気のなかった嬰児が今は成人に
・頸部・胸部の骨の歪みを整え、身体全体の平衡感覚を取り戻した女性
・心疾患による体の不調を脊椎の操作で取り除き、健康と自信を身につけた青年
目次
第一章 中国医学から日本医学へ
第二章 肩こりの発見
第三章 背骨の歪みは万病のもと
第四章 手技療法と心臓疾患
第五章 代替医療のエビデンス
第六章 脊椎の転位
第七章 症例研究
第八章 見出された身体
著者プロフィール
藤守創(ふじもり・はじめ)
1988年早稲田大学第一文学部フランス文学科卒。パリ第1大学ソルボンヌ哲学部博士課程修了。哲学博士。
神戸大学大学院医学研究科博士課程単位取得退学。関西医療学園専門学校鍼灸学科卒。鍼灸師資格取得。
専攻は、フランス科学認識論、東アジア医学史。
パリ大学科学史科学哲学研究所研究員、ハーバード大学東アジア言語文明研究科研究員、アムステルダム大学哲学部助教等を勤める。
早稲田大学卒業後は実家の経営する施術所に勤務する。施術者としての経験を積む一方で学究生活に入る。
現在は自身の施術所を経営するかたわら研究、講演、執筆活動に勤しむ。
「序」より
筆者は、大学を卒業すると、筆者の母方の祖父の代にまで遡る、実家の営む整体の施術所を手伝うようになった。我々の実践する療法は、骨盤の位置を矯正したり、脊椎の歪みを正したり、身体の平衡を回復させたりすることによって健康を維持するというもので、全て徒手によって行われる。筆者の母親は、彼女の父親が創始したこの療法を受け継いでおり、筆者は、自身の母親に弟子入りする形で自らの施術者としてのキャリアをスタートさせることとなった。当時、我々は、東京、大阪、そして祖父の郷里であった徳島と、三つの地域にまたがり我々の追求する技術の実践と理論の探求とにつとめていた。
各拠点において日々多くの患者と接し、そこで筆者が見聞きしたこと、実地に経験したことは誠に興味深いものであったと言わざるをえない。その頃、筆者の母親は五十代で、今にして思えばその技術は円熟の境地に達していたはずで、また、気力体力ともに充実していたのであろう、多くの驚くような出来事を実際に目の当たりにすることができた。
心臓が痛むもの、血糖値が上がってしまって下がらないもの、血圧が高いもの、反対に低すぎるもの、アトピー性皮膚炎に悩まされているもの、めまいが止まらない、頭痛が止まらないもの、喘息で苦しんでいるもの、事故の後遺症に悩まされているもの、ひどいてんかんの発作がやまないもの、ぎっくり腰、肩が廻らない、腕が上がらない、手が痛むもの、首が横を向いたまま前に向かないもの、匂いが判らなくなってしまったもの、子どもができない夫婦、若くして生理が止まってしまった女性、更年期障害に悩まされている中年女性、夜間何度もトイレに起きなければならないもの、あるいはその逆に尿量が少なすぎるもの、生きる気力が湧かないもの、事業が上向かない経営者、うまくいっているがさらに業績を上げたい起業家、もっとうまく弾けるようになりたい音楽家、もっと早く泳げるようになりたい水泳選手、もっと美味い料理でさらに客を魅了したい料理人、権力闘争に明け暮れる政治家、逆上がりができない子ども、成績が伸び悩んでいる学生、立てない、歩けない幼児、しゃべれない子ども、美しくなりたい女性、その他、その他。様々な疾患や、思い通りにいかないことに日々苦しむものたちが、多く我々の施術所を訪れ、続けて通ってきたものたちは皆元気になり、それぞれが望む人生を手に入れて帰っていった。
幼い頃から祖父の仕事を見て知っていた筆者にとってそれは見慣れた光景ではあったが、自らの職業としてそれを選び直接識る段に及ぶと改めて驚きを禁じえなかった。もちろん、そんなことあるはずがなかろう、そんなもので元気になれるはずなんてないじゃないかと思われるのもまた読者の自由である。ただ、筆者は、自身の経験に蓋をすることはできないし、認識のための共通の土台だけでも持つことができればと願うだけである。