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Seitosha Publishing

2019年9月のエントリー 一覧

著者:伊藤亜人
ISBN:978-4-86228-108-1 C00369784862281081.jpg
定価2500円+税 272ページ
ジャンル[日本論・民俗学]
発売日:2019年9月26日

紹介
論理的な中国、韓国とに比べて、論議をつくして合意に至ったり、論理的な説得が難しい日本社会。
同じ東アジアの中華文明圏にありながら、この違いはどこからくるのか。
外国人観光客が、かつて文明人としてその素材を卑賤の対象とした日本の食文化、独自の味を無限に追求するラーメン、ヤキトリに惹かれるのはどういうことか。
かつて中国、韓国で「賤」とされた身体的な踊りが、今日の日本では若い世代を中心に「よさこい祭り」などで個性的に発揮されている。これは何を意味するのか。

言葉により抽象化された理論を重視する中華文明圏の伝統の中で、具体的な「物」に託して、自己の想いや官能を表現してきた日本文化と日本人の精神は、いわば"周縁的"といえる。
古来日本人は、人と物の間に霊的な関わりを見出し、「難しい話」よりも経験と実践を重視してきた。
中国や韓国には、規範的・観念的な文芸に疲れ、感性を描く日本のアニメに惹かれる若者たちも増えてきた。
「物」を作り出すことを誇りとする日本の職人や料理人に憧れる者たちもいる。

似ているようで似ていない隣国・韓国との比較から見えてくる画期的日本論を、韓国研究の先駆者が、長年にわたるフィールドワークや実体験をもとに語る。

「これほどまでの認識の高みに至った日韓比較論は、近年ほかに見ないと断言してよい。そもそも日本社会を、西洋社会との比較や特殊論、本質主義などで把握しようとしてみても理解できない。似ているようで異なる韓国社会との比較がもっとも効果的である。
論理体系を忌避し、共同体志向で、責任という概念があいまいな周縁的日本が、どのようにして朝鮮を植民地統治したのか、その問題点はなにか、という指摘も鋭い。」
──小倉紀蔵 (京都大学教授、「週刊読書人」2020年1月3日より)

「韓国(朝鮮)は中華文明をきちんと受け入れたが、日本は違う。
そのために、普遍的な観念論を重視する中国や韓国とは全く違う「物との相互性を尊ぶ」という特異な社会が日本に生まれた。本書では、職人を重用する意識や「地域」へのこだわりから精神的自律性までの多様な面での日韓の違いが説かれる。…
隣国を座標軸に据えて描かれる日本社会の姿を知ることは、日韓関係がなぜ難しいのかを理解する一助ともなりそうだ。」
──「毎日新聞」2020年1月19日より
 


目次
Ⅰ 東アジア文明圏の周縁・日本
  1. 歴史地理的に見た日本
 2. 文明社会の高度な統合
 3. 思想史というアプローチ
Ⅱ 物との相互関係を前提とする日本
 4. 人間の主体性・中心性
 5. 人と物
Ⅲ 即物的な日本人の認識
 6. 形式と精神性
 7. 空間認識
 8. 歴史観
 9. 二宮尊徳の仕法
IV 論理体系を拒否する日本人
 10.「植民地近代」
 11.  指導性と競争
 12. 日本社会の周縁的様相


著者プロフィール
伊藤 亜人(いとう・あびと)
東京大学名誉教授。1943年生まれ。東京大学教養学部卒業。
東京大学教授、琉球大学教授、早稲田大学教授等を歴任。その間、ハーヴァード大学客員研究員、ロンドン大学SOAS上級研究員、韓国ソウル大学招聘教授。
専攻、文化人類学、民俗学。
第11回渋沢賞(1977年度)、大韓民国文化勲章(玉冠、2003年)、第9回樫山純三賞(2014年)。著書『文化人類学で読む 日本の民俗社会』(有斐閣)、『北朝鮮人民の生活―脱北者の手記から読み解く実相』(弘文堂)ほか


「あとがき」より

 日本社会における非体系的な様相とは、おそらく日本人なら誰もが生活の中で何かと実感してきたにちがいない。あるいは、普段とりたてて自覚することがなくても、言われてみれば気づくことばかりであろう。体系によって縛られることがなければ、さまざまな分野や局面でいくらでも広がる様相であって、これをテーマとして限られた紙面で描くことにはもともと無理があることも明らかである。こうしたテーマは、本来なら生活の中に埋め込まれ、状況に応じて実践されてきたものである。社会生活のあらゆる分野に広がり、我々自身が身の周りにいくらでも観察できるテーマでもある。主体的な表現の分野では、文芸の領分にゆだねられてきたもので、多くの証左を得られる。しかしそれゆえにとりとめもない断片的な話題となりかねない。
 そこで私が手掛かりとしたのは、我々に隣接する韓国社会の様相であり、一九七〇年代の初めから現地に住み込みながら人類学的な調査を通して積み重ねてきた知見である。もう一つ拠りどころとしたのは、日本人の生活・社会に対する民俗学の蓄積である。そして全体の構想や洞察の方法においては人類学が有効であったにちがいない。
 日本社会を取り上げるのになぜ韓国なのかと訝しく思われる読者も少なくないと思われる。その点については自信をもって次のように答えよう。韓国社会こそ日本とは近くて遠く、また似て非なる、そして異文化社会の中でも我々にとって圧倒的に情報量も多く、集約的な比較と参照が実りある社会なのである。当然ながら地理的に近いため、現地の人々とも親交を積み重ねることで観察を重ねながら持続的に認識を深めることもできる。また、日本に対する自己認識なくして韓国研究は成り立たないし、韓国研究は自ずと日本社会の再認識を促すものでもある。
 非体系的とか周縁的な様相というと漠然と否定的に捉えられかねないが、繰り返し述べてきたように、私は日本社会におけるこうした様相をむしろ人間社会の普遍的かつ自然な様相と見ており、読者にはその可能性・豊かさを前向きに認識することも期待したい。自然科学や技術の領分はともかくとして経済学の分野でも、こうした非体系的な様相についても人間社会における普遍的なものとして肯定的に位置づけるべきものと考えている。